今日も元気に真人間

好き: 中日 、アニソン 、中本 、IT 、乃木坂46(乃木坂って、どこ?、乃木坂工事中)

グループに対して「終わった」ということがナンセンスであるということ

23枚目の選抜発表があった。
順当にセンターは飛鳥となった。

が、当の本人は、およそ順当とは言い難い反応をしていた。

 
涙を流しながら、まだ言えない何かについて語る飛鳥。
短絡的に考えれば、また誰かの卒業云々なのかと思っていたが、番組終了直後にブログが更新された。

長いので(失礼)大事そうなところだけ引用すると以下のような感じ。

>今の乃木坂がどう見られているのか。
>昔を回顧したくなる気持ちも重々分かります。
>「これが乃木坂46です!どーん!」ってしていなくては。我々がちゃんと立っていなくては。
>飽きた覚めたと言われないよう、精いっぱい努めます。

圧倒的エースの西野を失い、グループとして落ち目になっていくのではないかという声は本人たちの元にも届いているのだろう。
橋本の卒業は白石西野で、生駒の卒業は白石で受け止めてきたのに、西野の卒業を受け止めるのは白石ではなく自分。「順当にセンターは飛鳥となった」と上で書いてしまったが、それだけの立場になってしまったということをようやく実感してきたのか。

グループとして落ち目だ、終わりだ、終わった、などという声は、2,3年前くらいからおそらく上がり出したことだろう。
こういうことを言う人たちは、自分の中で最もよかった時代を思い描き、そのときのメンバーを欠いてしまってもうおしまいだと言っている。が、「自分の中で最もよかった時代」と比較している以上、何とどう比較しても劣って見えるのは当然である。そして、その時代が終わったことから、グループとしても終わったということにして、離れていく(のであればまだよいのだが、こういう人種は大抵離れることなく文句を言い続ける)。

ファンにはいつでも離れる自由があるし、特に単推しのファンはそのメンバーが抜けるとともに身を引きがちであるのも分かる。
しかし、構成員が生身の人間であり、加入と離脱を繰り返していく以上、現状維持などというのはどうあがいても不可能である。グループとは常に変化し続けるものであり、そもそも「終わった」という概念を持ち出すこと自体がナンセンス。敢えて言うなら常に終わっているようなもので、それは同時に常に始まっているということでもある。今の姿が今の乃木坂であり、過去の姿と違うのは当然。どんな時代もいつかは終わってしまうものだが、いつか終わるからこそ、その時代があったということや、それをある程度維持してきたということに価値が生まれる。

私は偶然にも野球が好きなので、同じように状況を当てはめるとよく分かる。
XXXX年代のチームはとても強かったが、ここ最近は不甲斐ない戦いが続いている。強かった当時の主力選手であった○○や××は素晴らしい選手だった。最近レギュラーを張っている△△では物足りない。引っ込め!もうこのチームは終わりだ。
こんなことを言うファンはいるだろうか。……いるか。例が悪かった。しかし、そうは言っても何だかんだチームを応援し続けるのが大部分であろう。

「あなたが好きだった時代が終わったというのは確かだ。そのときから何人かメンバーを欠いている以上、それは当然である。だからといって、グループは姿を変えて成長し続けており、決して終わってなどいない。それでもあなたの中の思い出が汚されていくのに耐えられないのであれば、思い出が綺麗なうちにさっさと黙って身を引いた方がいい。その自由くらいはあなたにもある。」文句を言う人を見る度に、私はこう思う。

>「これが乃木坂46です!どーん!」ってしていなくては。我々がちゃんと立っていなくては。
この一言が全てだと思う。これが今の乃木坂です、というところを見せてほしい。過去に囚われすぎず、終わったのかもしれないが同時に始まったのだというところを見せてほしい。


「前の世代を超えろ」というのは、私はあまり望んではいない。受け継ぎたい何かがあるのであればそれを目指すのはよいが、前の世代と次の世代は別物であり、同一の軸で比較することなどできず、超える超えないというのがおかしな話。「信じる方角へ進む」その先にあるのは、「前の世代を超え」ることではなく、「違うルートを探」すことなのだと思う。